それでも虹は美しい

「理由を知っていても,その美しさは変わらない」

『Boy's Surface』 円城塔 / 僕と彼女の間にあった「屈折」について

 具体的な経験があることと,それを描いた文学作品を理解できることは別だ。恋愛をしてみてわかった事は,「恋愛をしたからといって恋愛小説の読解力が変わるわけではない」という事だ。逆に恋愛をしていても読み方を知らないと「Boy's Surface」を理解できないだろう。これが文学だろ?

 

本文中にあらすじを書くが,それを読み取るのがおもしろい話でもあるので読んでから見たほうが面白いと思う。と言っても2007年の短編を2016年に話しているわけで,ネタバレと言われても困るけれど。

 

 まだ関西にいたとき,友人から「恋愛小説を研究しているのに恋愛をしたことが無い人がいる」という笑い話を聞かされた。僕はその時に笑うことができなかったが,否定することもできなかった。「経験」から得られるものについて否定するだけの根拠を持っていない気がしたから。

 ところで,昨年7月から今年の1月にかけて初めて恋人として付き合うという経験をした。(個人的なことだけど,はてなブログの片隅に名前が出ない形で書く分には発見されることも無いだろう。他のSNSと紐付けないように気をつけよう。)自分が好意を向けた相手から好意が返ってくるのは初めてで,とてもいいものだと思った。

 それだけに,向こうから別れの意向を告げられたときには悲しかった。今まで見ていた相手のイメージは僕の頭の中だけで作られていたんじゃないかと疑った。そもそも,人の脳の状態をまるまるそのまま理解できない以上,行動を見て推測したものを僕たちは「こころ」と読んでいるわけで,相手のイメージは作り上げられたものだというのは当然のことなのだけれど。

 

 このあと,おおまかなあらすじを書く。できれば読んでからにして欲しい。更にできれば下の画像からリンクで飛べるアマゾンで買ってほしい。

 

 

 

 

 この円城塔の短編であるBoy's Surfaceでは,数学者レフラーと認知科学者フランシーヌが出会い,別れる。二人の間に数学的な構造である「レフラー球」があることをレフラーは発見する。レフラー球は,情報を反対側に伝える際に,意味を変容させてしまう。人と人との間には「レフラー球」が存在していて,どうしても完璧にお互いを理解することはできない。

 それでも相手を理解しようとする試みが恋であり,その試みこそが美しいのだというそんな話だった。

 この話を昨年6月の僕は理解していて,面白い話だと思ったし,読み直すまで面白いと思っていた。それは,人と人との理解の不可能さを数学的な構造である「レフラー球」を使って表すという文学的なテーマに対するSF的アプローチがかっこよかったからだ。ここが文学的な能力が必要なところだ。

 いまこの話を読むと,自分の経験と照らし合わせてしまい感傷的になりすぎる。3月4日時点の僕は,あの恋愛に対して未練たらたらだからだ。これでは,ノイズが多すぎて元の意図から読み取った内容がズレてしまうだろう。エモは危険だ。

 しかし,それでも問題はない。なぜなら文中にあるようにBoy's Surfaceは「二次元基盤レフラー図形」によって書かれた文章であるからだ。円城塔からの恋文。入れ子構造の見事さ。

 

 あの子の嫌いなところは見つからないと思ってたけど,こういう文学的なセンスが無いところはあまり好きじゃなかったな。500日目も近いのかもしれない。

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